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西八条にて
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公任:
今日は「飾太刀」と「平緒」について説明しよう。どういうものかは一番最初の全体像で確認してほしい。
この二つはどちらか一方というわけではなく、必ずセットで用いられたものだ。着用しても良いのは武官、中務省官人、勅授を受けた者となっている。あとはお約束の「五位以上」。当然だがこれは見た目を良くするためのものだから普通の太刀とは違う。このような太刀を「儀仗太刀(ぎじょうのたち)」といい、逆に警固の時などにも使えるようなものは「兵仗太刀(ひょうじょうのたち)」と言うぞ。「飾太刀」は前者に該当するな。
では装飾を見てみよう。飾太刀はとにかく派手で、目に見えるところは金銀などで細工し、あるいは螺鈿や蒔絵などもふんだんに使用されていた。鞘は一応木製ではあるが、これにも当然豪勢な装飾が施されていたのは言うまでもないだろう。ちなみに螺鈿細工と蒔絵細工は、螺鈿のほうが重視されていて節会、立后、行幸などの行事には公卿が用いるとされていた。それ以外は節会の時にしか許されていなかったぞ。
さて、たかが一本、されど一本これだけ派手な装飾品であれば当然用意するのは大変だろうということは想像できるだろう。だからこれの代用品なるものが登場し、これを「細太刀(ほそだち)」という。本来の飾太刀に比べて装飾を抑えたもので、見比べるとかなりさっぱりしている。ちなみに本来の金銀などの細工を凝らした飾太刀は別名「如法の飾太刀(じょぼうのかざりたち)」とも言うぞ。

そして平緒だが、これは布ではなく糸を組んで作られたものだ。刺繍も施されていて代表的なものは鳳凰、梅、松、獅子、孔雀などだったが、これを作るには大変な技術が必要だったために、持っているのは専ら上級貴族に限られていた。では普通の貴族はどうだったかと言えば、これに似た「どし織」というものを使っていた。平緒は飾太刀に紐を通して使い、幅三寸(約9センチ)、長さは本によって九尺とも二尺ともあるが、一尺が大体30センチなのを考えれば、二尺のほうが妥当な長さだろう。


次に細かい装飾品だ。まずは笏。文武問わずに束帯の場合は持ち、持ち手は右。威儀を整えるためで、五位以上は「牙笏(げしゃく)」となっていたが、調達が難しいことから平安中期にはほとんど木製のものへとシフトしていったぞ。素材は好みで柊や桜、榊に杉などで、形は天皇が上下が四角(神事の時は上が丸みで下が四角)、臣下は丸みを帯びたものを持ったぞ。ちなみに木製であるから当然木目があるわけだが、これもちゃんと決まっていた。良いとされたのが「板目(いため・木目が平行でなく波打っている状態)」で、不適切とされたのが「柾目(まさめ・縦にまっすぐな直線がある状態)」だった。また笏の幅や厚みはあまり一定していなかったようだな。これがやはり平安中期になると「檜扇(ひおうぎ)」も登場してくる。これは手に持っているというわけではなく、帖紙と一緒に束帯の中に忍ばせておくものだった。これは女房装束の一つとして見た人も多いと思う。この二つは威儀を整えると同時に周知の通りカンペとしての機能も併せ持っていたから、本当に必須道具と言っても良いだろう。
そして「帖紙(たとうがみ)」は、二枚一組で、束帯に忍ばせておくというよりは、少しだけ外から見える形でしまっていた。紙は「檀紙(だんし・厚手の白い紙で陸奥紙とも言う)」、「鳥の子(とりのこ・滑らかで光沢がある)」、「薄様(うすよう・鳥の子のもっと薄いもの)」などを使用していた。そして束帯に限り、紙の色は両方同じ色でなければならない、という決まりもあった。誰がどの色を使うか決まっていて、
天皇・・・紅の薄様(十六まで)、薄紅の鳥の子
東宮・・・檀紙の場合は白、薄様の場合は赤
上皇・・・薄色(うすいろ・薄い紫)
臣下・・・基本は白の檀紙か鳥の子。若年は紅の鳥の子、壮年は白の檀紙に箔押し。


そして足元の襪と沓に行く。襪は前述したように今の靴下のようなもので、指のところは分かれていない。基本的には束帯の時にしか履かないものだな。特別に許された場合のみ、衣冠や直衣の時でも履いて良しとされていた。素材は「練貫(ねりぬき・絹織物)」。
沓は種類があるが、ここでは「浅沓(あさぐつ)」を紹介する。木製で黒漆塗りで文字通り爪先から甲くらいしか入らない。靴というよりはスリッパに近い感じもするな。これは木製でしかも漆塗りだから、いくら襪を履いたとしても痛いから「込(こみ)」という部分を足の甲が当る部分に差し込んで痛くならないように工夫されていた。沓の底には今と同じ中敷きのようなものを張り、これを「沓敷(くつしき)」と呼んだ。この沓敷の布は表袴と同じ素材でできており、身分を表すものでもあったぞ。


最後に、「襴」と「蟻先」だが、この二つは道具でも何でもなく、単なる名称になる。「襴」とは縫腋袍の下の台形の部分がこれに当たり、「襴」の先端が「蟻先」というふうになっている。これに関しては分かりにくいと思おうから、後日簡単な図で示したいと思う。この「襴」と「蟻先」は武官の闕腋袍にはなく、文官の縫腋袍のみにある特徴だから、見分けるのが簡単な部分でもあるな。


以上がさっと束帯についての解説になる。これでもかなり説明は省いているから、詳しく知りたい場合は参考資料などの本を参考にしてほしい。次は武官の束帯「闕腋袍」について解説したいと思う。いつになるかは分からないが←
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公任:
さて図らずも延び延びになってしまったが、ようやくこれが最後となる。ただし前回失敗したこともあるので細かくわけてそれぞれを解説したいと思う。
houeki5.gif
















前回まで駆け足だったがとりあえず一番上の縫腋袍を着用するまでを解説したが、その縫腋袍を留めるのがこの「石帯(いしのおび/せきたい)」だ。専ら呼び方は「せきたい」のほうだから何かで調べるときはまずこちらで検索してくれ。
この石帯は分かりやすく水色で示した部分だが、要するにベルトのようなものだ。少なくとも平安時代は今と同じように一本で構成されていたようなのだが、図のように二手に分かれたのは鎌倉時代以降のことだ。ただ多くの場合、紹介されている「石帯」はこの二手に分かれているものばかりなので絵としてはこちらを採用したということを最初に述べておく。

右上の図は石帯を拡大したもので、四角いものは石帯の装飾品だ。古くは金・銀・銅だったが、平安時代はほとんど玉か石となっていて、種類としては瑪瑙や犀角(さいかく/サイの角、ただし実際は牛の角)、瑠璃、象牙などだった。加工した際の形も、このように四角いものは「巡方(ずんぽう)」と呼び、丸く加工したものは「丸鞆(まるとも)」と呼んだ。更にこれらに模様などを彫ることもあり、代表的なものをしては鬼型や獅子型、唐草などであったぞ。もちろん位階や地位によってどれを身につけてよいのか、というものもきちんと決まっていた。具体的には
無文巡方(むもんずんぽう) 天皇、帛御衣(はくのおんぞ)、または斎服の時
有文巡方(うもんずんぽう) 三位以上の厳儀の時
有文丸鞆(うもんまるとも) 公卿の通常時
無文丸鞆(むもんまるとも) 殿上人の通常時

ということになっている。天皇の帛御衣とか斎服を着ている時というのは要するに神事に際している時を指す。三位以上の厳儀とは節会や行幸の時などで、それ以外では下の二つとなるわけだ。見てのとおり、巡方のほうが厳粛な場合であるということが分かると思う。ただ石帯の中央に丸鞆、両端に巡方をつけた便宜上はどちらでも使える「通用帯(つうようたい)」というものもあったぞ。
houeki6.gif
















そしてこれが実際に石帯を着用した姿になる。上に反り返っている部分を「上手(うわて」、玉などの装飾品があるほうを「本帯(ほんたい)」と呼ぶ。どのように結んでいるのかといえば、右上の図のようになる。実際平安貴族の服はゆったりしたものが多く、腹部はどの服でも大体ふくらみで隠れてしまうから、そういう部分は単に紐で結ぶようなお手軽な形へと変わっていったわけだ。

次にこの石帯にかけて使う「魚袋(ぎょたい)」を紹介する。これは身に付ける儀式が決まっていて、節会、大嘗会、御禊、内宴、二宮大饗などだった。位階も五位以上となっており、素材も公卿は金、殿上人は銀として石帯の後ろの右(上手と本帯を留めてあるあたり)にかけていたぞ。形はその名の通り、魚の形をした符の袋で、
ここで言う符とは簡単に言えば通行証のようなものだ。

さてとりあえず今回はこれで終わりだ。次は飾太刀と平緒について解説するぞ。
公任:
さて前回から少し間があったが、いよいよ束帯の着用順について説明したいと思う。なお細かいところを端折っている部分もあるかも知れないがそこはご容赦願いたい。

houeki1.gifまずは「垂纓冠」をかぶり、上半身に「小袖」下半身に「大口袴」を着用する。足には「襪」。これが束帯の最下層の衣服になる。肩に垂れているの部分を「纓」と言うからこの名がついたわけだ。五位以上は「皀羅頭巾(くりのらのときん)」六位以下は「皀縵頭巾(くりのかとりのときん)」と定められている。皀とは黒色のことで羅、縵は素材名を指している。どちらも薄い生地で、違いは模様があるかどうかで前者には模様があるが後者にはそれがない。まあ後には上下関係なく模様がついたものを使用することになったがな。

次に上半身の「小袖」だが、これが紹介されているのは「礼服」の部分で束帯のところで紹介しているものはない。手元の一冊の本に載っていたので一応描いてはみたが・・・。説明自体も多くないので何とも判断しかねるものでもあるな。

下半身の「大口袴」は裾を括っていないからその名がつき、夏冬に関係なく色はくれないと決まっていた。だから「赤大口」とも呼ばれていた。ただ若年は濃色であり、特殊な例として一日晴れの白装束の時には白を用いることもあった。

最後に「襪」だがこれは現在の靴下と同じで足袋のように親指のところで分かれていない。基本的に束帯以外の時は着用しないのが普通だった。




houeki2.gifで、次に「単」を着る。この単は裏地がなく、多くの場合これが上半身の最下層となっている。色は基本的に紅で、素材は綾、模様は横繁菱(まあ普通の菱形が並んでいる状態だな)となり、天皇から六位の者まで共通だった。
この単は狩衣の時などにも着用されたから、その時は束帯の時よりは多少派手になることが多かった。ちなみに今回の絵で色がオレンジぽくなっているが、これは次に着用する「衵」も同じ紅色であるから、わかりやすくするためにあえて変えたわけだ。間違えたわけではないぞ。そしてこの時足元には表袴も用意してある状態になっている。









houeki3.gifそしてこれが「衵」と「表袴」を着用した状態だ。衵は上記のように色は紅が普通だった。これは裏地も同じ紅だったぞ。素材は表が綾、裏が平絹。模様は表のみで小葵を使用していた。が、これは天皇および公卿の場合で、殿上人は模様なし。色も細かいことを言えば壮年は萌黄などの薄い色、それより年上は白が普通だった。実資とかな(笑)
ちなみにこれの上にさらに「半臂(はんぴ)」というものを着用していたのだが、俺たちの時代、つまり平安中期頃には冬の束帯の場合、外から見えないこともあってほとんど省略されてしまっていた。必ず着用していたのは武官の闕腋袍と、夏の縫腋袍の時だった。なのでここでの説明はさくっと省かせてもらいたい。

下半身の「表袴」だが、はっきり言って複雑な構造をしているため絵を見てもいまいち理解できかねるので(爆)説明は簡単に。
色は夏冬関係なく表が白で裏が紅。この絵だと分かりにくが裏地が少しばかり長めになっているので、裾からすこしだけ紅の生地が覗いている。つまり三枚ずれて重なっているように見えるのだが、色が似たような感じだから遠目では判断しづらい。もともとは質素なものだったが延喜以降から模様付きのものなどが登場しはじめた。模様については簡単にまとめると下記のようになる。
公卿および禁色を許された蔵人 藤丸
(若年の場合は、窠に霰(かにあられ))
老年 八藤丸

殿上人以下は模様はなく、代わりに光沢を出したりしていたぞ。
表袴は袴というよりもズボンに似たような形をしている。まあその辺りは参考資料などを見てほしい。こればかりで申し訳ない。


houeki4.gifそして「下襲」を着用する。後ろに長く引いている部分を「裾(きょ)」といい、この長さは身分によって決まっていた。一時朱雀天皇の時はこの部分をやたら長くする者がかなりいたため、規制する事態にまでなった。その長さは親王が一尺五寸、大臣が一尺、納言が八寸、参議が六寸と定められた。一寸が約3.03センチで一尺はそれの10倍だから計算はまあ、自分で(逃げた)
これが後三条天皇の時代になると大臣が七尺、大中納言が六尺、参議と散三位が五尺、四位五位が四尺というように延長され、この長さが写真などでよく見る長さとなったわけだ。大体2,3メートルくらいだな。



pic-fuku.jpgこういう風景を見たことがあるだろうか。廊下で待機する場合などはこのように長い裾を手すりにかけていた。また例えば行成のようによく動く貴族の場合、長い裾が邪魔になるから、この部分を石帯や太刀にかけて移動していたぞ。
色目と模様はいずれの場合も表が白で、裏地は天皇が濃蘇芳、公卿殿上人は黒もしくは濃蘇芳。模様は天皇が小葵、公卿が浮線綾、殿上人はなかった(裏地もあるが省略)
そしてこの下襲は正式な儀式以外、例えば天皇の行幸など一日限りの行事などの場合、定められた以外の色や模様を自分の好みで着用することができた。これを「一日晴装束(いちにちばれしょうぞく)」と呼んだ。色は特に季節に合わせたものだから、自分のセンスの良さを自慢する場所でもあったぞ。

そして一番上に袍を着て細かい装飾品を身につければ完成、となるわけだが思いのほか長くなったのでここで一旦終了したいと思う。何か気付いた点や間違っている点があれば遠慮なく教えてほしい。
しかし人に説明するとはかくも難しきことだと改めて痛感するものだな。


houeki.gif






















公任:
平安時代の服飾についての解説を担当する藤原公任だ。今回は晴れの儀式での必須のスタイルである「束帯」を紹介するぞ。束帯は二つあり、「縫腋袍(ほうえきのほう)」と「闕腋袍(けってきのほう)」がそれになる。今回紹介するのは前者の「縫腋袍」で、これを着用できたのは文官および四位以上の武官で、「闕脇袍」は四位以下の武官というようになっている。

束帯の基本的な構成としては、
垂纓冠(すいえいのかんむり)・縫腋袍・石帯(いしのおび)・魚袋(ぎょたい)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単・表袴(うえのはかま)・大口袴・平緒・太刀・襪(しとうず)・靴・笏・畳紙(たとうがみ)
となっていて、今回の絵をそれぞれに分けて紹介すると下図のようになる。

houeki0.gif






















細かい解説は着用順と合わせてすることにするので、とりあえずここではこの程度に留めておくことにする。

束帯はほとんどの儀式において着用されたものだから「昼装束(ひのしょうぞく)」とも呼ばれ、「物具(もののぐ)」とも呼ぶ。「物具」とは特定のものを指す用語ではなく、きちんと揃っている状態を指すもので代表的な例が「十二単」だ。他に武士が着用する「大鎧」などもこれに当てはまるぞ。
もとは奈良時代の「朝服(ちょうふく)」が変遷したもので、朝服の上に「礼服(らいふく)」が存在したのだが、これを着用したのは親王や諸王、五位以上のみではっきり言ってそれほど数は多くない。
それに対して朝服は上は皇族下は初位(そい)まで着用したから数は礼服より圧倒的に多く、また数が多ければそれだけ「ここはこうしたほうが良い」とかそういうアイデアが出てくる。それらを少しずつ加えていった結果、唐風だった朝服が「束帯」という形になり、儀式で着用する服の最高位となったわけだ。
ちなみに礼服のほうは、着る人数もそれほどいなければ着用する機会もあまりなかったので、ほとんど形が変わらず孝明天皇まで続いたぞ。
あれだ、お気に入りの服なんかは色々組み合わせたりアレンジしたりするものだが、年に一回着るか着ないかくらいの服はそのままにしておくのと同じ原理だ。多分。

と、今回は束帯についての簡単な概略を示したわけだが、所詮素人に毛が生えた程度の管理人が作ったわけだから全部鵜呑みにはしないでくれ。確実にかつもっと詳しく知りたい場合は参考資料や役に立つサイトなどを別に紹介するから是非そちらを参照してもらいたい。

では次はお待ちかね(?)の束帯の着用順と、各部分の少し細かい解説をするぞ。もし今回の記事でどこか間違っているところがあったらこっそり教えてほしい。後で俺が管理人をしばいておくから。

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